なぜミュージシャンが起用されたのか
1960年代後半、テレビにお笑い番組ブームが到来していた。おなじみの『笑点』(日本テレビ系)が始まったのも1966年である。
テレビ局はジャズ喫茶で新たなスター候補を探し始め、ドリフに白羽の矢が立つ。そうして誕生したのが、最高視聴率50.5%(世帯視聴率。関東地区、ビデオリサーチ調べ)をはじめ高視聴率を連発して「怪物番組」と呼ばれた『8時だョ!全員集合』(TBSテレビ系、1969年放送開始。以下、『全員集合』)だった。
当初TBSは、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)ですでに茶の間の人気者になっていたハナ肇とクレージーキャッツをメインにと考えていた。だがプロデューサーの居作昌果は、ドリフの起用にこだわった。
そこにはコント55号にどう対抗するかということがあった。当時コント55号は人気絶頂。しかも同じ土曜夜8時台の裏番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系)が高視聴率をあげていたからである。
コント55号の笑いは、アドリブが基本。欽ちゃんこと萩本欽一が自由自在にツッコみ、二郎さんこと坂上二郎が欽ちゃんの強烈なツッコミを受け止め、絶妙のボケを返す。浅草の修業時代以来、気心の知れた2人だからこその名人芸だった。
いかりや長介の稀有な才能
同じことをやっても絶対に勝てない。そう考えた居作は、「時間をかけて徹底的に練りに練り上げた『笑い』」で対抗しようとした(居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』)。
その点、いかりや長介はまさにうってつけの存在だった。不器用で口下手ないかりやはトーク番組の司会などは不得手。だが、「ギャグをじっくりと考えていくのが、大好き」という点では右に出る者がいなかった。学校の教室でのコントだとする。するといかりやは、黒板、教壇、生徒の机や椅子、ランドセル、教室の窓、ドアなどあらゆるものを使ったギャグをいつまでも考えて飽きることがない(同書)。
慎重な性格のいかりやは、最初簡単には首を縦に振らなかった。だが居作の熱心な誘いに負け、『全員集合』の企画は動き始めることになる。