1995年、アメリカのマイクロソフトは「Windows95」を発売した。このソフトの大ヒットの影で、人生を大きく変えられた人たちがいる。読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた書籍『「まさか」の人生』(新潮新書)より、日本語ワープロソフト「一太郎」の開発者、浮川初子さんのケースを紹介する――。(第1回)
日本語ワープロソフト「一太郎」大ヒットのその後
赤いパッケージに毛筆の書体で書かれた商品名。日本語ワープロソフト「一太郎」が、発売されたのは1985年8月28日だった。
34歳の時にこのソフトを開発した女性プログラマー浮川初子さんには、痛快な思い出がある。
1万円札を同封した現金書留の山、山、山――。ネット通販がなかった時代、ソフトの購入代金が郵送で届き、金庫に入りきらないほどになった。
一太郎は、日本語の文章をパソコンで書くという行為を当たり前にした国産ソフトだ。パソコンの職場や家庭への普及を背景に、爆発的なヒットを記録した。
ソフトの名前は「日本一になれ」と願って付けた。2歳年上の夫、和宣さんと2人で創業した徳島市のソフトウェア開発会社「ジャストシステム」は、日本を代表するソフトウェア会社に成長した。ただし、話には続きがある。
「本当によく稼いでくれました」
ジャストシステムの専務でもあった初子さんは、しみじみ語る。
1986年の春、当時35歳の初子さんは、徳島県の秘境・祖谷渓谷を訪れていた。前年8月に「一太郎」を世に送り出し、その後に急ピッチで開発した新バージョンもようやく発売。社員をねぎらおうと、社長の和宣さんと企画した2泊3日の社員旅行だった。