※本稿は、泉谷閑示『「自分が嫌い」という病』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
子どもにとって親は「ほぼ神」
言うまでもなく、人は子どもができれば自動的に親になるわけで、特にそのための試験や資格があるわけではありません。厳しい見方かもしれませんが、実際のところ人が親になるような年齢ではまだまだ人生経験も浅く、親という役割を果たす上ではその成熟度はかなり危なっかしいものだと言えます。
ところが生まれてきた子どもは、そんな実態や裏事情など知るよしもなく、無邪気に親に対して全幅の信頼をおいています。つまり人格形成期の前半において、子どもにとっての親は、ほぼ神のごとき存在なのです。
もちろん10年以上経った思春期あたりから親への批判的視点が芽生え始め、それまで鵜吞みにして受け取ってきたことを疑えるようになりますが、その時点ではもう既に、子どもの人格の基礎部分には、しっかりと親の足跡が残されてしまっているわけです。
核家族という親子だけの閉じた世界
ところが実際の親は、もちろん神ではなく不完全な人間に過ぎないのですから、子どもに対してどんな時でも問題なく接することができるわけではありません。しばしば親は余裕がなくなって苛立ちを子どもにぶつけてしまったり、煩わしく思って邪険に扱ってしまったりなど、およそ完璧な子育てなどには程遠いのがその実情であろうと思われます。
また、現代に多い核家族においては、その閉鎖的な環境ゆえに、親の未熟さや偏りが、ダイレクトに子どもに影響しやすいという問題もあります。
昔の大家族や「古き良き」地域コミュニティの中では、親が単独で子育てをするのでなく、複数の大人たちが子どもをゆったりと見守って育てていたような状況でした。たとえ親自身に偏りや未熟さがあったとしても、その弊害は複数性によって適度に希釈されるので、子どもへの悪影響も、直接的なものではなかったのです。
しかし、今日の核家族という環境は、育児負担が親だけに集中してしまい、親に余裕がなくなるだけでなく、その閉じた隔離的状況の中では、親の言動が子どもに対して一種の洗脳的な作用を及ぼすことになってしまいやすいのです。